お稽古案内
私達が指導します
西川鯉好 Nishikawa Koiyoshi

昭和21年、藤間好師に入門。
昭和24年、西川鯉三郎師の直門内弟子となる。
昭和29年、「鯉好」として苗字内となり、赤坂検番で家元の代稽古を勤めた。
昭和30年、鯉男と結婚。以来、鯉男と二人三脚で「鯉男会」を盛り立ててきた。
[鯉三郎家元との思い出]
今に続く名古屋踊りですが、その昔は皆自分たちで舞台化粧をしていました。ところが、「釣り女」で私が醜女を演じた時ばかりは先生がしてくださったのです。
毎日、誰にも内緒で描いてくださるのです。
ああでもないこうでもないと趣向を凝らし、出来上がるのは毎日違った顔。
舞台で初めて見る奇妙きてれつな滑稽顔に出演者が噴き出し、踊れなくなる様子を、先生はとても楽しんでいらっしゃいました。
先生も私たちも若かったんですね。
その当時の事で、司津奥様にお詫びしなくてはいけない事もございます。
奥様は格式のある「猩猩」や「菊慈童」を得意とするせいか、踊る前にお塩を撒いて清めるような方でした。
小道具を急ぐあまり跨いで叱られている先輩がいましたっけ。それなのに、奥様付きだった私は「望月」を踊る奥様の鉢巻を忘れてきてしまい、もう間にあいません。
困った私は手近に有った白い似通った腰紐でごまかしました。踊るたび奥様の背中で「司津」と書かれた紐がひらひらしてました。終わると「お疲れ様でした」とさっと紐を外してくれたのが後見をしていた主人でした。これは共犯です。ごめんなさい。
西川鯉絵 Nishikawa Rie

実年齢と芸歴の差がたった二年しかないという、大ベテラン。
十七才で鯉絵の名を貰い、西川流苗字内となった。 師匠として稽古をつけ始めたのは二十歳の時。
学習院大学在学中、部活動として学生歌舞伎にいそしんでいた折り、後輩からのたっての希望で教え始めたのがきっかけ。
現在は、邦楽清元流の唄い方清元梅紫壽としても活躍中。
[鯉三郎家元との思い出]
先生は父と母の仲人であるばかりでなく、私の本名「はつ子」の名付け親でもあります。立派な方につけて頂いたせいでしょうか。踊りの世界でも清元の世界でも本名で呼んでいただくことが多く、お弟子さんまでからも「はつ子先生」と呼ばれています。
小さかった私が、家元と歌舞伎座で「乙若」を踊らせていただいたということを、亡くなった祖父母がたいそう自慢にしていたことが、今でも懐かしく思い出されます。
家元に最後にお稽古して頂いたのは、「彦市ばなし」の「天狗の子」でした。もうだいぶお体が悪かったのに、ありがたいことです。家元の踊りで一つ挙げるなら「おりき」です。あ、「吹き寄せ」も「紀州道成寺」も。やっぱり一つにはなりません。